和食と聞いて思い浮かぶ料理といったら色々ありますが、「寿司」「蕎麦」「天ぷら」あたりでしょうか。
すべて和食の料亭で出てくる料理ですよね。実際、これら3つは「江戸の三味」と言われるくらいに古くから日本で親しまれてきた料理です。しかし、実はこの中には起源が日本ではなく、外国から輸入されたものが存在します。
それは天ぷらです。
天ぷらは特に、純和食である「蕎麦」とセットで食することが多いため、多くの人が和食と思い込んでいるようですね。
ということで、こちらでは天ぷらというものがどのようにして日本に入ってきたのか?その由来や歴史・起源と漢字でどのように書くのか?そもそもの語源はなんなのか?などについてお伝えしていきたいと思います。
天ぷらの由来・起源・歴史とは
天ぷらが日本に伝わったのは室町時代。
1543年に長崎の種子島にポルトガル人が来航し、鉄砲などを伝えたというのは有名な話ですが、この時に様々な食べ物も一緒に日本に伝わり、天ぷらも伝えられました。
当時の日本では油というものが灯火用に使用するという貴重品だったので、調理に大量の油を使用する天ぷらは高級品とされておりました。
天ぷらにまつわる話で、「徳川家康が天ぷらを食べ過ぎが原因で死んだ」というものがありますね。
そもそもこの話が嘘か真かわからないところはあります。もし本当だとしても天ぷら業界の人たちにとっては天ぷらのイメージダウンになってしまうのでちょっと都合が悪いですね。
ともかく、天ぷらは徳川家康のような人物でないと食することができないという高級品であったことを示すエピソードではあるわけです。
江戸時代に入ると菜種油の製造が盛んになり、油を使うことが容易になると庶民にも一気に広まり、大衆料理として知られていくようになります。
とはいえ江戸時代というのは250年ほど続いた長い時代で、一口に「江戸時代」といっても色々な時期があるわけですが、天ぷらが庶民に広まっていったのは江戸時代後期の1780年代と言われています。はじめは屋台料理として、食事というよりはおやつとか間食のような感覚で食べられていました。
今では立ち食いというと「立ち食い蕎麦」くらいしかお目にかかれませんが、冒頭で申し上げた江戸三味である天ぷら、さらには現在では高級品として知られる寿司でさえ、最初は立ち食い屋台のお店から始まったのです。
手が汚れないように串に刺して提供された屋台天ぷらの値段は「一串4文」と記されていたようで、これは同時期に人気のあったウナギのかば焼きが200文だったことを考えると随分と位の低い食べ物であったことが伺えます。
それと同時に、一般庶民でも気軽に楽しめる料理だったということでもありますね。
これは、「屋台」で販売していたことからもわかります。なぜ屋台で販売していたのかというと、それは天ぷら油の精度が悪く、揚げると白い煙が立っていたことが原因です。
天ぷらを揚げるときに白煙が立っていたとしたら、今だったら火災を疑うレベルのものですよね。からっときれいに揚げた天ぷらの香りというのは食欲をそそるものですが、精度の悪い油で揚げた天ぷらの煙というものは食欲を減退させてしまうものでした。これが室内に充満しては商売としては成り立たないので、匂いを屋外に放出してしまえる「屋台」という方式で売られたというわけなんです。
私たちが「屋台」と聞いて想像するものは、焼きそば、たこ焼き、リンゴ飴など、味はともかくとしてそこまで「高級品」のイメージはないと思います。当時の天ぷらというのはそういったものだったんですね。
これがさらに時代が進んだ1850年代くらいになると、今度は「少し高級品」へと格上げされます。これは現在にも続く天ぷらの立ち位置になりますね。それはとりもなおさず、屋台ではなく店構えで提供されるようになったのが理由です。さらには料亭でも天ぷらが提供されるようになります。
これはやはり、天ぷらを揚げるときの煙の問題の解決が大きかったようで、明治時代になると「椿油」を使って、比較的少ない量の煙で天ぷらを揚げることができるようになったので、室内でも提供できるようになったのです。
明治維新後は道路の取り締まり規制により屋台が許されなくなり、天ぷら屋は完全に室内の商売へと移行していきます。屋台がなくなったことで、さらに少しだけ高級感が増したと言えるでしょう。そして現在のような「普段から常食するわけではないが、たまにちょっと贅沢をするときに食べるもの」へと天ぷらの立ち位置は変わっていったのです。
天ぷらの語源や漢字は?
ポルトガル語で 「調味料を加える」「油を使用して硬くする」という意味の”temperar”(テンペラール)が語源となっているという説が有力です。
あるいは、ポルトガル語で「四季の斎日」を意味する「テンポラ」が語源という説もあります。四季の斎日とは季節のはじめの三日間に祈りと節食をする習慣です。この期間中信者は肉を食べる事が禁じられるため、魚などに小麦粉の衣を付けた料理を食べていました。
確かに天ぷらというと、春なら菜の花やふきのとうの天ぷら、秋ならなすの天ぷらなど、季節の野菜や魚などを食材を使用することが多いのでこれも一理ある説の一つでしょう。また、通常は動物肉を天ぷらにすることはあまりないということもこの説を有力づける一つの要因ですね。
私の知る限りでは「鶏天」くらいでしょうか。それも元々は名古屋のローカル料理にすぎませんでしたからね。そもそもわざわざ「鶏天」という名前を付けるあたり、通常の天ぷらとは一線を画した料理であることが分かります。
ちなみに天ぷらを漢字で書くと「天麩羅」ですが、語源から考えればただの当て字であることが分かります。
一応、それぞれの漢字の意味をくみ取るならば「天」は「天竺(てんじく)」、「麩」は「小麦粉」、「羅」は「薄い衣」、つまり「天竺から来た浪人が売る小麦粉の薄物」という意味になります。
とはいえ、天竺はともかく「麩」と「羅」にそんな意味が込められていることは普通は知らないし、字を見ても全くイメージはわかないですね。特にその深い意味は考えず、単に当て字という風にだけ覚えておけば良いように思えます。