和食と聞いてまず思い浮かぶのが「蕎麦」でしょう。
寿司、天ぷらと共に「江戸の三味」として楽しまれてきた蕎麦。私たちが「和食」と聞いてまず思い浮かぶのはこの3つでしょう。これらはすべて、少なくとも数百年の歴史を経て現在にも伝わるという日本が誇るべき伝統の料理なわけですが、こと蕎麦に関しては他の二つに比べて桁違いに長い歴史をもつ食べ物です。
ということで、こちらでは蕎麦の歴史や由来について、その漢字の語源やどのようにして始まったのかという起源などをお伝えしていきたいと思います。
蕎麦の歴史・由来・起源
寿司が現在のような握り寿司の形になったのは江戸時代からで、天ぷらという料理がポルトガルから入ってきたのは室町時代。ともに400年、500年という歴史を持つ食べ物で、私たちの人生からすればずっと遠い昔からある伝統と言えるのですが、そばに関してはなんと縄文時代にまでさかのぼります。
高知県佐川町の地層から見つかった蕎麦花粉からは、少なくとも約9300年前の縄文時代草創期から栽培されていたものと思われております。
現時点での最古の記録が残っているのが上記のものであって、今後もっと古い証拠が見つかる証拠も十分にあります。これだけ遠いと文献などあるはずもなく、物的証拠があるかどうかで決まってしまいますからね。
とはいえやはり極東に位置する日本という国では、起源をたどっていくと西にある大陸に行きつきます。現在では中国雲南省からヒマラヤあたりにかけてが蕎麦の原産地という説が有力です。これは日本という国、日本人の生い立ちから考えれば仕方のないことなのですがね。
ともかく、中国原産の蕎麦は
(1)朝鮮半島→対馬
(2)シベリア→北日本
(3)中国大陸→九州
というルートをたどって日本に入ってきました。これが前述の縄文時代草創期ですね。
これだけ長い歴史を経てなお蕎麦が生き永らえているのは、稲作に不向きなやせた土地や冷涼な高原でも栽培ができるという植物としての強さや、種をまいてから2~3か月ほどで収穫できるという手軽さがあったからだと思われます。
そんなこともあって、凶作対策用の作物として古来から重宝されてきたようですね。実際、縄文時代中期には日本列島の寒冷化が始まり、従来のような食べ物を得ることが困難になったのですが、そんな時代すらも超越して現在にまで引き継がれているのです。
考えてみれば、今現在の日本にあるおもな作物といえば小麦やお米などの稲作文化がもたらした比較的新しいもので(それでも弥生時代から続くものですが)、その稲作文化以前から続く作物というのは蕎麦のほかには粟(あわ)や稗(ひえ)くらいです。
しかし粟や稗を日常で食することはほぼ無いに等しく、事実上残っているのは蕎麦だけということになります。
とはいえ当初の蕎麦は、現在のような細切りにした形のものではありませんでした。蕎麦の粒をすりつぶして製粉することに多大な労力を要したため、粒のまま食べられていたようです。
まあ、粒を食べるというイメージからしても味気なさそうな食べ物です。どちらかというとひもじい時の苦し紛れに食べるようなものだったのでしょうね。
そんなわけで一般的に広まっているとは言えず、これだけ長い歴史を持ちながら万葉集、古事記、日本書紀などの文献に蕎麦の記述は一切ありません。
初めて文献に登場したのは797年に完成した史書「続日本紀」で、奈良時代前期の女帝だった元正天皇(680~748)が出した詔において、稲の収穫が見込めないのでその際の救荒作物としての栽培を奨励するような記述があります。
鎌倉時代になると中国からすり鉢が入ってきて製粉技術が発達し、そば粉の大量生産が可能になりました。このすり鉢というものは日本の食文化に画期的な変革をもたらし、蕎麦だけでなく「味噌」もこのときからすり潰して食することができるようになり、あの味噌汁が生まれたのです。
それまでは大豆の豆をすりつぶさない「粒味噌」というものが使われていたので味噌汁のようにお湯に溶かして飲むということができなかったんですね。
そば粉が容易に作ることができるようになると、そばがき、うきふ、つみれ、すいとん、おやき、せんべい、そば饅頭、そば団子など、様々なそば料理というものが作られ、また文献にも頻繁に登場するようになりました。
鎌倉時代末期にはなんと「年貢」として課せられるくらいになるほど、蕎麦の地位は向上していきます。
そして戦国時代に入ると、ついにあの細長い形の麺にした「そば切り」が登場します。
現在では標準となっている「細切り」の蕎麦ですが、それまでと違った画期的な発明だったのです。しかし、この「そば切り」というものを誰が最初に考案したのか、ということについては未だ謎のままです。①信州から始まった説 と②甲州から始まった説 の二つがあるようですね。
文献としての最古の記述は、大桑村の定勝寺という寺で1574(天正2)年にしたためられた「定勝寺文書」における
「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」「振舞ソハキリ 金永」
というものです。その後江戸時代に入ると近江の多賀大社の住職だった慈性という僧侶が1614年(慶長19)年2月3日に書いた「慈性日記」における
「江戸の常明寺でソバキリを振る舞われた」
という記述です。
こういう歴史から見れば、現在の蕎麦は戦国時代から始まった、という風にすることができますね。となると「江戸三味」として寿司、天ぷらと共に並び立つというのも納得というわけです。ただやはり、作物としての蕎麦の歴史はほかの食べ物と比べても桁違いに長い伝統を持つといえますけどね。
さて、満を持して登場した「そば切り」ですが、登場してすぐに広まっていったというわけではなく、文献への記述もまばらです。
江戸市中にそば切りが登場するのは1600年代半ばからで、江戸時代前半というのはどちらかというとうどんのほうが主流でした。
1700年代になると、現在にも続くざるそば、もりそば、ぶっかけそばなどの元祖ともいえるそばが登場し、18世紀中ごろには完全にうどんを抑えてそば優勢となりました。現在でも行われている「年越し蕎麦」という風習が広まるのもこの江戸時代中期のことです。
そして蕎麦屋はどんどん江戸中に広まっていき、1860年代の江戸末期には3700店を超えるほどになりました。
現在でも蕎麦というのは庶民の食べ物として広く親しまれておりますね。
蕎麦の語源
蕎麦の「蕎」という字は、「とがったもの」とか「物のかど」を意味する「稜」が由来になっており、蕎麦の実が三角卵形で突起物になっているのが理由です。
また、蕎という字は草冠を除いた「喬」という字が「高い」という意味で、小麦と分けるために「背の高い麦」というような意味合いでこの漢字をあてたようですね。
最初は「ソバムギ」と読んでいましたのですが、これが室町時代に入ると後ろの「ムギ」がなくなって「ソバ」という風に読まれるようになったのです。
室町時代というと、だいぶ蕎麦も一般的な料理になっている時代ですね。それだけに目にしたり耳にする機会も多くなり、「ソバムギ」という呼称が長ったらしく、まどろっこしく感じるようになったのかもしれませんね。
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