「敷居が高い」という言葉があります。
現代でもよく使われており、高級なレストランや高尚な趣味など、一般の人にとってなかなか二の足を踏んでしまうくらいやりづらいという意味で使われているところをよく耳にするでしょう。「ハードルが高い」や「分不相応」というのとほぼ同じ意味でしょうか。
しかしこのような意味での使い方は、本来の「敷居が高い」の意味からすれば誤用という風になります。それでも平成20年度の文化庁の調査によれば、本当の意味で使っている人は42.1%、誤用で使っている人は45.6%と逆転してきているそうです。
なぜここまで広まってきたのかという理由については、「高級すぎたり上品すぎたりして入りにくい」という様子を表す日本語が他にないから、ということに尽きるでしょう。今や、本来誤用であったはずの「敷居が高い」から派生して「敷居が低い」なんて反対の意味で使われる言葉も出てきており、徐々に外堀を埋められている感じがします。いずれこの誤用は「許容」され、「正用」となっていくことでしょう。
今は正用と誤用の過渡期にあるところです。ともすれば、私たちが正しい意味を知って「多数派」となれば、誤用が広まることを防ぐことができるかもしれませんね。ということで「敷居が高い」の由来や本来の意味をお伝えしていきたいと思います。
敷居が高いの本来の意味と由来とは
そもそも「敷居」とは何を意味しているのでしょうか?
これは辞書によれば「門の内と外との仕切りとして敷く横木や引き戸・障子・ふすまを開けたてするための溝やレールのついた横木」という風にあります。
主に前者の「門の仕切りとしての横木」という意味で使うことが一般的で、例えば「敷居をまたぐ」という言葉は家を出入りする意味で使ったりします。
そんな風に「敷居」を広い意味で「家」として使った表現が「敷居をまたぐ」あるいは「敷居が高い」というもので、「敷居が高い」というのは「相手に不義理があったり長い間音信不通になっていてその家に行きにくい」というのが本来の意味です。
「家」というのはいわば所有者の個人的な領界であって、現代風に言うならば「パーソナルスペース」ということになりますね。家に行くというのはパーソナルスペースを侵すということであり、よほどの信頼関係がなければできないことです。
不義理があったり音信不通な人の家にはなかなか行きづらいものですが、そんな家に入りづらい心理を少し誇張した表現が「敷居が高い」というものなのです。
これがいつしか、単に「行きづらい」というより広い意味で捉えられるようになり、さらには冒頭のような「高級すぎて入りづらい、参入しにくい」という誤用で使われるようになっていったのです。
本来の由来からすれば、高級なレストランに入りづらいというのは細かいニュアンスは異なれど「入りづらい」という意味で共通しているのでそれほど大きく外れてはいませんが、習い事などに対して「敷居が高い」というのは完全な誤用ですね。
住宅の様式が変わって「敷居」そのものを見たことがないという人もいるようですから、そんなこともこういった誤用が広まった要因なのではないでしょうか。
「敷居が高い」の言い換えはあるのか
現在は「敷居が高い」の誤用派と正用派で真っ二つに分かれていて、これ以上誤用が広まらないようにしたいものですが、これはなかなか難しいところです。
なぜなら、本来の意味を知っている人ができることはせいぜい「使わないこと」という非常に消極的な行為くらいでしょう。林修先生のようにテレビという場を使って「正しい日本語」について伝えることができるお膳立てがされていれば別ですが、そういった人は稀です。
一方で誤用だと知らない人は知らないが故にそれをお構いなしでどんどんと使って周りの人へと伝染していきます。
何よりも、本来の「相手に不義理があって行きづらい」という意味で使うことは日常生活でほとんどありません。よほど訳ありな人しかこの意味で使うことはしないはずですからね。それに比べて「高級すぎたり上品すぎたりして入りづらい」というのは多くの人たちが日常生活で対面する事態です。
これに対抗するには「敷居が高い」の言い換えとしてしっくりくる別の言葉を広めるしかないのですが「腰が引ける」「尻込みする」という似たような意味での表現はあるものの、文章としてこちらは自分自身が主語になり、「敷居が高い」はそのお店や物事などが主語になっているという決定的な違いがあり、住み分けは出来るとしても言い換えにはならないのです。
そういう意味ではやはり「ハードルが高い」が最もしっくりくるのですが、日本語の中でカタカナ語を使っていることに対する違和感、あるいは「難しい漢字を使っていると頭が良さそう」という美意識、音として発した場合の字数の少なさから「敷居が高い」のほうに軍配が上がります。
言葉の本懐は「意図を伝えること」にあるため、これがもし誤用が広まってより多数派を形成するならば、それを使うことが最も適切という事態にもなり得ます。とはいえ私たちは「誤用をしないこと」しか出来ることがないのですけどね。