向こう見ずに突っ走ってしまうというようなイメージで使われることの多い「無鉄砲」という言葉。
その文字通りに解釈するなら、「鉄砲も持たずに狩りや戦場に行く」ということが由来になっているように思えますね。
しかし、この無鉄砲という言葉の語源は実はほかのところにあったのです。
ここでは「無鉄砲」の本来の語源・由来を探るとともに、その言葉の意味をお伝えしたいと思います。
無鉄砲の本来の意味とは
無鉄砲というのは、本来は「無手法」「無点法」あるいは「無天罰」という字で表現されておりました。
無手法というのは手に何も持たないということで、特別な技芸などを持たないとか、なんの手段も持っていないという意味です。現代でもやり方とか方法という意味で「手法」という言葉を使いますが、それを全く持たないということ。
そこから転じて後先考えずに行動するという意味になりました。つまりノープランってことですね。
無点の点というのは、漢文における返り点などの訓点のことです。訓点とは、漢文を日本語訳に直す際にその読み方を示すために書き加えられた文字や符号です。日本語の文章における句読点とはまた別ですね。
この訓点がない漢文は読みにくく、理解しづらいことから、そのまま「理解しがたい、明確でない」という意味へと転じたという説もあります。
無天罰というのはなんとなくわかるかもしれませんが、天罰すら恐れずに大胆なことをするということです。
これらのうちどれかが当て字によって変化したものが「無鉄砲」だったのです。
少なくとも無手法、無点法という言葉は日本に鉄砲が伝来する前から存在している言葉です。さらに言うとこれらの言葉は現代では使いませんよね。となるとそれまで使われていた無手法、無点法という言葉に取って代わって「無鉄砲」が生まれたのだとすれば合点がいきます。やはりこれらの当て字という説が確かなのだと思います。
この中で「無天罰」というのはこの言葉だけで「天罰すら顧みない」という意味には取れないことに加えて、「無手法」「無点法」よりも音感がかけ離れているので違和感があったのですが、江戸時代中期の柳亭種彦が著した『柳亭記』において
江戸時代中期の柳亭種彦が著した『柳亭記』に
「元禄よりはるか古き册子(そうし)に無天罰者と書きたるがあり、むてっぽうとは無天罰の訛り、天罰知らずというに同じ、はや元禄の頃は言い誤りそれを名につけたるなるべし」
という記述があるようです。古い文献だからといってそれがすべて正しいとは言えませんが、無天罰という説もそれなりに信憑性があるのでしょう。
考えてみれば、鉄砲を持たずに向かうような無謀なさまを「無鉄砲」とした、のではストレートすぎて、言葉としてあまり美しくないような気がしますね。こういった言葉遊びが由来になっていたとなると妙に納得です。
「無鉄砲」と似たような言葉に「がむしゃら」という言葉がありますが、この二つの意味の違いというのはどういうところにあるのでしょうか?
無鉄砲の意味は「後先考えずに向こう見ずな行動をすること」ですが、がむしゃらの意味は「後先考えずに強引に行動をする」というもので、無鉄砲よりもがむしゃらのほうが強引さが増したような表現になっていますね。
確かに、がむしゃらという言葉を聞いた時に想像するのは、人が必死になって何かをやっている様ですが、無鉄砲にはあまり「必死」というイメージはなく、それどころか涼しい顔してとんでもないことをやってのける、というどこか落ち着いたイメージがあります。
そして言葉の音感としても「がむしゃら」のほうがなんだかすごく強いイメージがありますね。漢字で書いても「我武者羅」ですからやはり無鉄砲よりも強引さが強いです。