コンビニやファストフードなど、あらゆる業種においてレジで会計をする時に一万円札を出すと「1万円入りまーす!」という謎の掛け声をよく耳にしますよね。
単なる業務連絡の意味合いならいいのかと思いきや、客としてはそれをあまり快く思わないこともあります。特に自分の後ろにも客が並んでいる時、手持ちに一万円しかなくて確認に時間を取られるとまるで自分が悪いことをしたかのような、晒し者みたいな扱いを受けている気になる人も結構いるみたいです。
実際、あの「一万円入ります!」という謎の掛け声を快く思っている人は少なく、6割以上の人が「うざい」とか「意味不明」とか、あまり快く思っていないようなんですね。
おそらく、なぜあの掛け声をするのか?その理由がわかればそのモヤモヤもはっきりすると思うんです。
そしてこれは、客側だけでなく接客をしている側にも言えることだと思います。おそらく、コンビニやファストフードなどでアルバイトをしている人も「一万円入ります!」を言う理由というのは深くは知らないでしょう。せいぜい「大きいお金だから確認のため」くらいにしか言われていないはずです。
実際、お店側の人でも「いらないんじゃないか」と思っている人もいらっしゃいます。
こちらでは、「一万円入ります!」の本当の意味や、その由来などをお伝えしたいと思います。
一万円入ります!の由来とは
この「一万円札入ります!」という掛け声は、誰が始めたのかという由来ははっきりしませんが、1970年頃から飲食店のチェーン店などで始まったのがきっかけと言われております。
最初は、高額紙幣を受け取ったときに末端の定員でなくマネージャーが直接対応するために、この掛け声によりマネージャーを呼んでいたのです。
金額の確認というのは、今でも一万円札に限らずお金を預かったときに「○○円お預かりします」という風に言いますよね。確認する人数を増やすことでチェックを厳重にするという意味で、高額紙幣の時は特に気を使っていたのでしょう。
そして何よりも、客の中に悪質な人がいて千円札で払っておきながら「さっき1万円札渡したじゃないか」と言う人がいます。これを未然に防ぐためなんですね。
一度レジにお金を入れてからこれを言われてしまうともう確認のしようがなく、こういった客の言いつけ通りにするしかありません。
おそらくこの問題の鍵というのは、かつてお札の肖像に使われていた「聖徳太子」にあるのではないかと思われます。
現在ではお札というのは、千円札は野口英世、五千円札は樋口一葉、一万円札は福沢諭吉という風になっておりますが、かつてこれが全て「聖徳太子」だった時代があります。
聖徳太子の千円札は1950年~1965年に、聖徳太子の五千円札は1957年~1986年に、聖徳太子の一万円札は1958年~1986年の間に日本銀行券として発行されておりました。
つまり、1958年~1965年の7年間というのは、謎の聖徳太子推しによりお札の肖像がすべて聖徳太子で統一されていたわけですね。さらに言うと、5千円札と1万円札の聖徳太子被りはもっと長い期間続きます。
今ではお札を見分けるのに肖像というのも一つの判断材料になりますが、これでは見間違えることも多かったことでしょう。
そして、客がそれに付け込んで前述のような千円札を渡したのに「一万円札を渡したじゃないか!」とクレームをつけるというようなトラブルは多発したことでしょうね。現在でもあるくらいですから。
店側としてもそうクレームをつけられたら確信が持てず、クレーマーに屈するしかなかったのでしょう。そこから自衛の術として編み出したのがこの「一万円入ります!」という掛け声だったのです。
現在ではお札の肖像はすべて分かれておりますし、何よりも「一万円札といったら福沢諭吉」というイメージが強いため、めったに千円札や五千円札と見間違えることはありませんね。とはいえ、ファストフードやファミレスって混雑時には会計に客が並んで迅速な対応が求められるので、そういう時にこそミスを誘発してしまうという恐れもあります。
そんな時に焦らずに「一万円札入ります!」という掛け声により間違いを防いでいるのでしょう。ただ、どうせお金の確認という意味でするならば、一万円だけに限らず5千円でも千円でもするべきですよね。1日の売上を締める際に、金額が合わない場合はその大小に関わらず最後まで帳尻合わせをしなくてはいけないのは、そういった業務に従事している人なら良くご存じのはずです。
ちなみにこの「一万円入ります!」の掛け声は日本独自のもので、他の国にはないものです。
海外の人が日本に来た際にこの光景を目にして「日本人は大金が入るとありがたがるのかい?」と聞いた、というような話もあります。
なるほど、確かにイメージとしては日本人は几帳面、外国人はおおざっぱというようなものがありますね。例えば新幹線や電車なんかは、日本だと時刻表通りに来るのが当たり前で、外国だと逆に定刻通りに来ることが珍しく、遅れてくるのが当たり前と聞きます。几帳面な日本人の国民性だからこそ生まれた文化といえるでしょう。