「皮肉」という言葉は日常においてよく目にしたり耳にしたりすると思います。
現代における主な使い方としては「皮肉を言う」に代表されるように、「相手の欠点や弱点を遠回しに非難する」という意味でのものが最も一般的と言えるでしょう。
しかしよく考えてみるとこの「皮肉」には、そのように遠回しに非難をするというような意味の言葉は一つも使われておらず、皮と肉という非常に生々しい言葉を組み合わせていますよね。
なぜこの不思議な組み合わせでそのような意味を示すようになったのでしょうか?こちらでは「皮肉」の本来の意味や由来・語源などをお伝えしていきたいと思います。
皮肉の由来・語源・意味とは
元々、この「皮肉」というのは中国の高名な仏僧である達磨大師(だるまだいし)の言葉に由来しています。
6世紀前半に実在した達磨大師は、あの置物のダルマのモデルにもなった人物で非常に徳が高かったと言われています。それは達磨「大師」という「偉大なる師」という高僧の敬称が与えられていることからも容易に想像が出来ます。現代では「大先生」なんて呼んだらそれこそ「皮肉」にしかなりませんけどね。
そんな達磨大師が自分の弟子たちに対して「皮肉骨髄」という言葉を用いて評価を下していたのです。
4人の弟子たちに仏教の要所について尋ね、
「言葉にならぬところを言葉にしていく」と答えた者には「お前には私の皮が伝わった」と、
「たとえ極楽浄土を見たとしても、そこに行こうとは思わない」と答えた者には「お前には肉が伝わった」
「精神作用は現象であり、そこに魂など無い」と答えた者には「お前には骨が伝わった」と
何も言葉を発さず黙って達磨に一礼した者には「お前には髄が伝わっている」と、それぞれ言い渡したのです。
ここで言う皮と肉は表面的な理解を、骨と髄は本質的な理解を意味するのですが、皮と肉の評価を得た者が決して劣っているというわけではなく、この4人の弟子の評価に優劣はありません。その評価の側面が異なるだけなのですが、ここから取って表面的な理解をしている人、本質的なところを理解していない人に対して「皮肉」という言葉を使うようになったのです。
僧侶の崇高な考えを俗人の湾曲した考えに当てはめてしまったことによる食い違いと言えるのではないでしょうか。「表面的なところしか理解していないから悪い!」と浅はかに断じることこそが正に「表面的な理解しかしていない」ことを体現していると思います。
表面的な理解を示せぬ者というのは、それは例えばダイエットの話をしている時に「生物に優劣になんてない、皆平等なのだから」とやたらと大局観をもって言葉をのたまう人物、というような感じではないでしょうか。生活をしている以上、ある程度は小手先の表面的な理解というのも必要です。それをすべて切り捨ていきなり深いところの話をしても周りはついていけませんからね。
表面的な理解しかしていないという人も然りであり、その両方を理解することで初めて真の理解と言えるのではないでしょうか。
ともかく、表面的な理解しか示さぬ者に対しての非難の言葉としての意味を持った「皮肉」が独り歩きしていきます。
それがなぜ「相手の弱点や欠点を遠回しに非難する」ということになっていくのかというと、それはつまり表面だけ、うわべだけという意味から来ているのだと思います。
実生活では例えば、やたらうるさい人に向かって「元気があっていいね」というように心の底からは思っていない、表面を切り取った言葉というのが「皮肉」なわけですからね。