お花見とは?その起源・由来・歴史とは?なぜ桜なのか

3月~4月にかけては「花見」の季節です。

花見

花見とは、読んで字のごとく「花を見ること」がすなわち花見なのですが、現在では花を見ることよりも「集まること」「酒を飲むこと」が主の宴という位置づけになっていますね。花より団子、花より酒というわけです。

この時期になると、季節の花の移ろいを楽しむなんてこととは無縁であった輩が急にこぞって「いい桜だ~!」なんて言い出すのですから滑稽です。

そういえば、お花見というと桜、桜が咲く季節が3月~4月だからお花見も自然とこの時期に行うわけですが、なぜ桜限定で「花見」と呼ぶのでしょうか?

花を見ることが花見なのですから、別に秋の花であってもいいはずですよね。

実際、桜以外の花を見ることもしますが、梅なら「梅見」、菊なら「菊見」というようにその個別の花の名前を取って言いますね。しかし桜だけは「花見」なのです。

いつから私たちは桜を見ることを「花見」と言うようになったのか?そもそも花見とはいつどのような由来や歴史があって始まったのか?ということをお伝えしていきたいと思います。

お花見といえばかつては「梅」だった

お花見というものは奈良時代にはすでに存在していたものとされております。しかし、現在私たちが「お花見」と聞いて思い浮かべるように桜の鑑賞をするのではなくその時点では「梅」でした。

梅

いわゆる「お花見」が桜を見ることを指すようになったのは平安時代のことです。

文献でいうと万葉集の時代までに詠まれた歌における「花」は梅で、古今和歌集以降のものに出てくる「花」は桜という風になります。実際、万葉集において梅を題材にした歌は110首、桜を題材にした歌は43首と梅が桜の倍以上あるのです。

これは、梅と桜の原産地の違いからくるもので、桜は日本古来の花ですが梅は奈良時代に中国から遣唐使によって伝わったものです。遣唐使が廃止されると共に「花」は桜のことを指すようになったのです。

奈良時代の梅を見るお花見というのは、花の美しさを愛でるというよりも神事としての意味合いが強く、厄払いのために行っていたのであまり楽しいものではなかったようです。

これが平安時代になり、花が「桜」のことを指すようになってから変わっていきます。

平安時代の歴史書「日本後紀」によれば、嵯峨天皇が812年に催した「花宴の節」というものが桜によるお花見の起源とされており、これが文献による桜のお花見の記述として最古のものになります。

嵯峨天皇は大の桜好きで、地主神社に毎年桜を献上させるほどお気に入りだったようです。

そして831年からはこの桜の花見が天皇の恒例行事となり、かの有名な「源氏物語」においても桜のお花見の描写があります。

とはいえ、平安時代の貴族は優雅に過ごすことを大切にしていたので、花見だからといってどんちゃん騒ぎをするのではなく、桜を愛でながら歌を詠んで楽しんだのです。

やがて鎌倉~室町時代になると、貴族の風習だった花見が武士の間でも行われるようになっていきました。

優雅で上品な貴族の風習を粗野で荒々しい武士が真似したというのはなかなか想像がしにくいものですが、実はこういった武士たちというのは貴族の優雅な振る舞いに憧れを抱いておりました。

例えば武士が使う「あっぱれ!」という言葉がありますが、これはもともと貴族たちが使っていた貴族言葉に武士が憧れを抱き、貴族言葉であった「あはれ」を武士っぽくアレンジして使ったのが始まりとされています。

あっぱれの意味や語源についてはこちら

このお花見についても、武士が自分たちのスタイルにアレンジしたのかわかりませんが、やはり貴族が優雅に行うようなものとは対照的に、酒を飲みながらどんちゃん騒ぎをするというものだったようです。

安土桃山時代になると、かの豊臣秀吉が1594年に「吉野の花見」という大規模なお花見が開催されました。

秀吉

これは1000本の桜を植え、5000人を召喚し、徳川家康、前田利家、伊達政宗などの有力な武将も招いてコスプレ祭りをするというバカ騒ぎで、庶民の耳にも行き届くほど盛大なものでした。

さらに数年後の1598年には「醍醐の花見」が開かれ、こちらも壮大に行われたようでこのあたりから花見が宴会行事として定着していきます。

江戸時代、8代将軍徳川吉宗は1720年に大規模な桜の植樹を行い、庶民でも花見が楽しめるようになり、かくしてお花見は酒を飲みながらのどんちゃん騒ぎと化していったのです。

そういえばかつて有吉弘行が「ブレイクするってのはバカに見つかること」と言っていましたが、これはいつの時代にも通じる真理と言えるのではないでしょうか。

なぜ桜なのか?

奈良時代の「梅」から、平安時代になって「桜」へと変わっていったわけですが、なぜ桜だったのか?

奈良時代には梅が人気であったものの、日本人が桜に全く興味がなかったというわけではありません。なにしろ桜は日本古来の花なわけですから、昔から桜には神が宿ると考えられておりました。

例えば「サクラ」の語源として言われている一つの説に、山や田の神である「サ神」と神が鎮まる座を意味する「クラ」という言葉を付け足して、サ神が鎮座する木ということで「サクラ」と呼ぶようになった、というものがあります。

この考えから、桜が咲くということはすなわち「田の神様が山から降りてきた証拠」であると考え、桜の開花を目印に田植えを開始するということをしていました。

あるいは、古事記に登場する女神であるコノハナサクヤヒメの名のうちの「サクヤ」がなまって「サクラ」という風になったともいわれております。

鑑賞するというよりは神の依代と考えられていた桜ですが、遣唐使が廃止され梅の文化が廃れたことで、日本古来の文化を改めて見直そうという方向へと変わっていったのでしょう。

あるいは「三日見ぬまの桜かな」と歌われるように、うっかりするとすぐ散ってしまうという儚さ、あるいは「この時期に見ないともったいない」と思わせることで人々の心を掴んだのかもしれませんね。

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