食事の前に発する「いただきます」と食事を終えた後に発する「ごちそうさまでした」は、日本人であれば幼少の頃からそれを言うように強要されてきたことと思います。
以前、「いただきます」についての本当の意味や由来などをお伝えしたところでした。とにかく私は、この「皆で一緒に言いましょう」の類の茶番が大嫌いで、「いただきます」を言うのも「ごちそうさまでした」を言うのも非常にストレスを感じていたのをよく覚えています。
そして「いただきます」が実は昭和、それも戦後に入ってから生まれたという新しい習慣ということでそれほど格式の高いものではないことがわかりました。
では「いただきます」と対になっている「ごちそうさまでした」の方は、果たしてどのような意味や由来が込められているのでしょうか?それについてお伝えしていきたいと思います。
御馳走(ごちそう)の意味とは
「ごちそうさまでした」の「ごちそう」は漢字で書くと「御馳走」という風になり、贅沢な食事やそれにより客人をもてなすことを意味しますが、そもそもの「御馳走」とはどのような由来があってこういう言葉になったのでしょうか。
「馳走」というのは本来、走り回ることを意味しています。「馳」には「馳せる」という言葉があり、「走」は言わずもがなで、共に走ることを表しているのですね。
これは、昔は客の食事を用意するためにあちこちを走り回ったことが由来になっています。
今ではスーパーやコンビニなどが身近にあり食材の入手も容易ですが、昔はお店で簡単に買えるわけではなく馬を馳せて自ら狩りに出かけたりする必要があったり、文字通り走り回っていたのです。
特に、現代と昔の大きな違いは「冷蔵庫の有無」というものがあります。食材を買いだめしておくことはできず、作る直前になってあれこれと奔走したことは想像に難くありません。
「御馳走」というのは馳走を敬った形で、これにさらに「様」をつけて挨拶として使われるようになったのは江戸時代後期からと言われております。
これは、「いただきます」が昭和からの習慣であることと比べるとかなり歴史が古いですね。「江戸時代」という言葉の魔力により「いただきます」よりも伝統があり格式の高いものとして認めてしまうことになるでしょう。
ごちそうさまでしたというお礼は目上の人に使えない?
「ごちそうさまでした」の本来の意味からすれば、食事に限らずともおもてなしのためにあちこち奔走した人に対しての感謝の意ということで使えそうです。
昔、すべての家庭が毎日お風呂を沸かすことができるほど裕福ではない時代に、お風呂を沸かすと近所の人が「もらい湯」をしにくるということをしていたみたいですが、その時にお風呂を貸してもらった人が最後に「ごちそうさまでした」とお礼を言っていたなんてことがあったようです。
これは正に、おもてなしのために奔走してくれた(実際はどうか知りませんが)家の人に対しての感謝の意ということで何も間違ってはおりません。
しかし言葉というものにはその辞書の意味だけでは説明しきれないニュアンスというのが存在します。言うなれば「流行り」といったところでしょうか。
現代では「ごちそうさまでした」には、食事の面での感謝の意の他に「男女ののろけを聞かされた際に言うからかいの言葉」なんて意味も持っているそうで、使用するのには注意が必要ですね。
結局、言葉の本懐というのは受け取り手がどう感じるかということにあります。
上司からお歳暮にハムをもらった際に「ごちそうさまでした」とお礼を言ったところ
「ごちそうさまは対等の立場の者に言う言葉で不愉快だ!」
と怒られてしまったなんて話もあります。
上記のように「御馳走様」にはそのために奔走してくれた人に対して感謝の意を伝えるという意味なので、特に目上とか目下とかは関係がないのですが上司がそう感じてしまうのなら仕方ないのです。
まあ、もしそのように言われたなら「御馳走」の本当の意味を話してそういった意図がなかったことを説明してもいいのですが、余計話がこじれるでしょうか。
「ごちそうさまでした」は「いただきます」と共に段々と言われることが少なくなってきています。時折、数年に一度くらいの頻度で「古い習慣を復活させよう!」という運動が起こることはありますが、それも一過性のものですぐに下火になるでしょう。
「御馳走」、走り回っておもてなしをしていた昔と比べて、今は食材も簡単に手に入るし、調理も簡単になってレンジでチンするだけで美味しいものが食べられたりします。昔ほど「馳走」というほど苦労をしているわけではなさそうです。となると「ごちそうさまでした」が希薄になってしまうのは仕方のない事なのかもしれません。
もちろんレンジでチンして食べるようなものでも様々な人の「御馳走」があって成り立っているものです。野菜・家畜を育てる人の馳走、食材を流通させる人の馳走、販売する人の馳走、さらには電化製品を作る人の馳走、それらが一体となってできているのが目の前の食事のはずです。
私個人の意見で言えば、その全員がボランティアではなく生業として行っていて、自分もそれに対する対価を「お金」という形で払っているのだから別に言わなくてもいいじゃないか、というドライな見方をしてしまいます。
そしておそらく、すべての「馳走」に関わっている人は「ごちそうさま」の独り言よりも「物を買うこと」を望んでいるはずです。
自分が本当に客人として厚いもてなしを受けた時に心から「ごちそうさまでした」と言えるように大事にとっておきたいと思います。