御託を並べるという表現があります。
聞きたくもない、どうでもいいようなことを長々と話しているようなイメージでしょうか。おそらく、大半の人がそのようなざっくりとした意味で捉えていることと思います。
例えば似たような表現に「能書きを垂れる」というものがありますが、この違いはお分かりになるでしょうか?これについては以前記事にしてお伝えしたところですが、「能書きを垂れる」の本来の意味としては自身の長所を誇張して並べ立てるというものでした。
このように、よくよく調べていくと自分が思っていたものと若干意味が違う日本語というのがあります。これも日本語という言葉の難しさであり、また美しさでもあるのでしょう。それだけに何となく似た言葉もちゃんと意味を使い分けていきたいものです。
ということでこちらでは、「御託を並べる」の本当の意味や由来とはどういうものなのか、ということについてお伝えしていきたいと思います。
御託の意味とは?
そもそも、「並べる」はともかくとして「御託」という言葉の意味がよく分かりませんよね。
よくみると「御」も「託」も、どこか尊大で仰々しい雰囲気の漢字が連なっていることが分かります。これは、元々は「御託宣」という言葉が省略された形であることに由来しています。
御託宣とは、神の意思をお告げ知らせることや神に祈って受けたお告げのことです。「託宣」を丁寧に言った表現です。日本語では「神託」とも言いますね。
イメージとしても分かりやすいと思いますが、神のお告げという名目で話すときというのは何だかその人が偉そうに見え、かつもったいぶって遠回しに長々と話しているように思えますよね。
よく漫画などでは巫女が「神が乗り移った」と言って「神のありがたいお言葉」と言い張って無理難題を課してくる怪しい人物などが描かれています。
もちろん、御託や神託は初めはありがたい仰せの意があったのですが、次第に自分勝手な理屈などを長々と偉そうにまくしたてる様を強調して「御託を並べる」と言う風に表現するようになったのです。
おそらく、「これは神の言葉である」というものを錦の御旗にかざして自分勝手でとんでもない理屈を通そうとする輩もいたのでしょう。
無神論者や無宗教の人物にとってはなおさら、そのような御託や神託というのはうさん臭く感じたことでしょう。もしかしたら信心深い人にとっても「ん?」と思ってしまうような御託や神託すらあったでしょう。
そもそも「神の御言葉」を代弁するという行為そのものが、単なる思い上がりの可能性もありますからね。そう考えると「御託」という言葉すら自分勝手に思えてきます。「神様がお託しになられた」と勝手に言っているのですからね。
あるいは神話などに出てくる神というのもどこか人間臭いですよね。ギリシャ神話のゼウスはあっちこっちで女性を引っ掛ける浮気者ですし、日本神話の天照大神は弟が悪事を働いたことでスネたひきこもりです。これらは所詮「人間が考える神の姿」の域を出ません。
人間が思う神というのはこのように自分勝手であり、だからこそ人が勝手に考えたような理屈でも「神様がお告げになったのだ」ともっともらしく言うことができたのかも知れません。
そして現在では「御託」そのものが傲慢でくどくどと言う様を表しております。それも、一見立派で聞こえの良いことをもっともらしく、偉そうに言う際の言葉のことですね。
「御」のように本来は尊敬の念を意味する言葉も、それを皮肉として表現するというのは他の日本語でもありますよね。
「大先生」とかもそうですし、「○○様の有り難いお言葉が聞けるぞ!」なんて言った日には現代では皮肉にしか聞こえません。
「並べる」というのは単に「御託を言う」よりも次々に言う様や長々とまくしたてる意味を強調するために使われているようですね。
何にしてもそうですが、物を言う時というのは極力無駄を省いて、簡潔に分かりやすく言うことが好まれます。
あれもこれも、と長々と余計な事を言って「あいつまた御託並べてるよ」と思われないように気を付けたいものです。特に、目上の人がつらつらと長く話していればそれを聞かされる目下の人は聞かざるを得ないですからね。注意しましょう。